会員のつぶやき
黄河の源流まで旅して
池上 正治
   「岡村昭彦の会」ニュースの第1号(1993年12月)に、こんなことを書いた。
── 岡村さんと出会ったのは……1980年9月のことでした。
── それを契機に、昭彦さんとはかなり「接近戦」をやるようになりました。
── 昭彦さんの「大陸を知る決め手は川だ」という指摘は印象的でした。中国といえば、黄河と長江になるでしょう…。
 
 
 
 この二つの大河は、それ以前から、どうしても気にかかる存在だった。
 黄河と初対面し、その盛りあがるような、黄濁した下流を凝視した。それは1967年の夏、大学3年、二十歳のとき、山東省の済南市の郊外でのことだった。
 その後も、チャンスがあれば、注意して河江を観察したし、取材してきた。それぞれの河口は、飛行機から、上空から何回か見たことがある。だが、やはり自分で足を運び、その流れの畔まで行くのがいい。
 黄河の中流に、河南省がある。その名のように、黄河の南側にあり、都は鄭州だ。その鄭州の北30キロに、東流する黄河がある。目視できないほどの河幅があり、対岸は霞のなかに消えている。一筋の鉄路がそれに架かる。北京と広東をむすぶ京広線である。この黄河の畔の一帯が「黄河遊覧区」となっており、各種の娯楽施設があることは、日本ではあまり知られていない。小高い丘に、黄河をにらむ二つの大きな石像があった。一つは、治水に成功したとされる禹であり、もう一つは毛沢東。
 三門峡といっても、日本での知名度はさらに低い。やはり河南省で、人口が約200万の三門峡市は、1985年から、岩手県の北上市と友好都市の関係を結んでいる。鄭州の西200キロにある三門峡を、中国人はじつによく知っている。その理由は、1957年、黄河に最初にできたダムの所在地だからである。このダムは現役だ。
 不思議なご縁である。この三門峡へ、長野県の農民や横浜の知人たちと、1994年からよく行くようになった。アンズ交流である。長野は日本一のアンズ産地であるが、三門峡には「楊貴妃杏」という名品があった。黄河の畔に、「日中友好アンズ園」まで作ったのは、時代の流れというものだ。
 甘粛省・蘭州の黄河は、幅が100メートル近くあるが、そこはまだ上流だ。黄濁した水の量は相当なもの。一帯には、大きな水車や、「母なる黄河」の母子像、黄河にかけた最初の鉄橋「中山橋」などがあり、最近はレジャーの波が押しよせている。
 黄河の源流である星宿海に、この8月23日夕刻、ようやく足跡を印した。そこは青海省のチベット寄りの場所である。海抜4600メートル強の星宿海は、その名のように、詩的で、幻想的な世界だった。草原から沁みでた清らかな水が、小さな水たまりとなり、溢れでた水がつぎの池を作る。
 この夜は、満月。そして満天の星。
 高歌放吟する男が、二人ほどいた。
 翌朝、テントの周囲は、一面の霜の世界となり、草花やヤクの糞には、白い霧の花が咲き乱れる。それが、日の出ともに、一瞬にして消え去る光景は、信じがたいほどだ。
 ただ、残念だったことは、12人のメンバーの中、四人が高度に順応できず、4200から下山してもらったこと。
 
 
 
 とまれ、黄河の源流から河口まで、全長5000キロ以上、その主なポイントはこれで見尽くしたことになるだろう。あとは、どう表現するか !