会員のつぶやき
拉致事件について
玉木 明
 岡村昭彦の思考方法の最大の特徴は、ものごとを歴史的観点において見ることだといっていい。しかも、その歴史の深度のとり方が自在で、かつ深く、スリリングな点では、他の追随を許さないものがある。が、その手つきぐらいはマネできそうな気がしないでもない。いま世間を騒がせている拉致事件を、岡村昭彦流に考えてみたらどういうことになるか。私なりの思考実験を試みてみたい。
 
 毎日新聞の日朝国交正常化交渉再開に関する世論調査では、「拉致事件の真相解明を憂慮し、国交正常化交渉を遅らせるべきだ」という慎重派が48%、「合意どおり10月中に再開すべきだ」「拉致事件の真相解明を条件に10月中に再開すべきだ」の両方を合わせた合意重視派が43%と、まったく賛否が拮抗する結果になった。
 
 大変に微妙な数字だが、私が予想していたよりは合意重視の回答が多い点に注目したほうがいいように思う。一言でいえば、意外と一般市民はこの拉致問題を冷静に受けとめているというのが私の正直な感想である。
 
 それにくらべると、新聞をはじめとしたメディアのほうが、なんとなく浮足だっているという印象を受ける。残念ながら、一部では被害者の家族の立場に立って国民の怒りをかきたて、北朝鮮に対する憎悪を煽るような報道をつづけているメディアもみられる。大衆の関心を引きつけるには、それがいちばん手っとり早いやり方だからにちがいない。
 
 なかには、「金正日の土産『マツタケ』を食べた人」(『週刊新潮』、10月10日号)、「小泉首相"敵"からマツタケ300箱」(『女性セブン』、10月17日号)などと書きたてる週刊誌もあって、小泉首相も形無しの態である。そこにあるのは、時の政府の姿勢を批判し、国民のナショナリズム感情を煽りたてるメディアのおなじみの構図である。
 
 京都大学教授の間宮陽介氏は、「新聞も時代の流れに合わせてタクトを振る」(『同時代論』、岩波書店)と書いている。すなわち「ナショナリズムの動きを気配として察知するや、それを抑制しようとするよりは、先回りしてナショナリズムの先物買いをする」というのである。
 
 拉致事件についての一部のメディアの報道を見ていると、間宮氏のいい分に反論したくても、反論できないような気分になる。その報道は、ちょうど100年前、国民の反ロシア感情を煽りたて、日露講和条約(ポーツマス条約)に反対するキャンペーンを繰り広げた、日露戦争(1904年)直後の新聞報道を想起させるものがある。
 
 当時の対露強硬派のいい分は、下世話にいえば、〈ロシアからもっと賠償金をふんだくれ〉〈樺太の半分を放棄するとはなにごとか〉といった国民の欲求不満を代弁していたといっていい。ほとんどの新聞は、そのような国民の声におされて講和反対を掲げ、日比谷公園で開催される非講和国民大会に参集するように呼びかけた。
 
 大会は混乱なく終了したが、演説会場の新富座前で群衆と警察が衝突、群衆の一部が暴徒と化して、内相官邸や講和に賛成していた国民新聞社などを襲撃し、東京は大混乱に陥った。世にいう日比谷焼打ち事件(1905年9月5日)である。
 
 この100年前の対露強硬派(ナショナリズム)の片棒を担いだ新聞報道と、現在の北朝鮮に対する憎悪の感情を煽る一部のメディアの報道との間に、なにほどかのアナロジーが感じとれなくもない。メディアのなかには昔も今も変わらない、同じメカニズムが息づいているということである。「新聞も時代の流れに合わせてタクトを振る」と間宮氏がいうのも、たぶんそのことだろう。
 
 しかしながら、あれから100年、もはや市民は日露戦争当時の市民ではないというべきだろう。確かに、いまだ「ナショナリズムの先物買い」をするメディアも跡を絶たないが、少なくとも私は、いまの市民はそのようなメディアの報道に惑わされるほど、ヤワな市民ではないと思いたいのである。毎日新聞の世論調査で出た慎重派が48%、合意重視派が43%という拮抗した数字が、なによりもそのことを表しているように思える。そう思わないと、浮かばれない気がするのだ。  岡村昭彦なら、なんというだろうか。たぶん、「お前は、甘すぎる」と、一喝するにちがいない。