年 譜
1929昭和4)年 
1月1日、海軍兵学校出身の大日本帝国海軍将校・岡村於菟彦の長男として東京帝国大学病院にて生まれる。母・順子。
1941昭和16)年 12歳
3月、学習院初等科卒業。4月、同中等科入学。しかし2学期には東京中学校へ転校。
1944昭和19)年 15歳
4月、東京中学校4年生。
1945昭和20)年 16歳
3月、東京中学校卒業。空襲により原宿の家全焼。4月、東京医学専門学校(現・東京医科大学)入学。
1947昭和22)年 18歳
東京医学専門学校中退(3月頃)。
1950昭和25)年 21歳
東京での闇屋、役者、学者、労働者、職人、浮浪児などとの共同生活の中に、弟・春彦を引きとる(4月頃)。
1953昭和28)年 24歳
前年暮れから、函館郊外の渡島当別トラピスト修道院に客室係として住み、キリスト教についての本などを読みあさる。
1954昭和29)年 25歳
函館市の小売書店で働き、齋藤和子との間に長女・純子誕生(3月)。
1960昭和35)年 31歳
東京荒川にある町工場の住み込み皮革労働者として仲間と共に安保闘争に参加(6月頃)。
1961昭和36)年 32歳
千葉県下の部落解放運動に取り組んでいたが、夏頃から総評の週刊誌「新週刊」編集部に勤める。
1962昭和37)年 33歳
石川達三編集長の「新週刊」表紙「世界の子どもシリーズ」を担当していたが、同誌の廃刊によりPANA通信社に入社(9月頃)。同通信社移動特派員として、初めてライカM3型1台を買い、バンコクに赴く(12月)。
1963昭和38)年 34歳
4月、ラオスに行き、プーミン・ノサバン軍の日本人・サワット(山根正人)中佐を取材(7月に再度)。7月、初めてサイゴンに入り、南ヴェトナム前線に最初の従軍をする(8月)。マレーシア独立式典を取材(9月)。ゴ=ジンジェム大統領兄弟が殺されたクーデターを取材(11月)。プノンペン側から南ヴェトナム国境を取材。自由圏の記者であるためカンボジアを追放される(12月暮れ)。
1964昭和39)年 35歳
ソウルへ行き、ミサイル基地での李少年射殺事件を取材(2月)。韓国漁船に乗り込み、日本人記者として初めて李ラインを内側から取材(3月)。乾季のメコン・デルタ(4月から5月)、山岳民族部隊(6月)、ラオス国境地帯(11月)、それぞれ従軍。
1965昭和40)年 36歳
サイゴンと解放区の村を往来していたが(2月)、南ヴェトナム第3海兵隊に従軍後、サイゴンのアメリカ大使館爆破を取材(3月)。4月半ばから5月末頃まで、Dゾーンの解放区にある捕虜収容所にとらわれの身となったが、解放民族戦線のファット副議長との会見に成功し、サイゴンをひそかに抜け出て、アメリカに行く(6月)。その後、ドミニカ革命を取材し、ヴェネズエラ、メキシコを経てアメリカに戻り、8月、日本に帰る。この間に「LIFE」「サンデー毎日」と契約。PANA通信社を退社。初めて沖縄を取材する(11月半ばから12月25日まで)。
1966昭和41)年 37歳
羽田沖で墜落した全日空機事故を取材(2月)。環太平洋を取材すべく、ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリアなど(9月)、サンフランシスコを訪れる(10月)。10/21ヴェトナム反戦ストで大宮操車場など取材。タヒチ、ホノルルを取材(10月から11月)。
1967昭和42)年 38歳
美濃部亮吉東京都知事候補を応援(3月から4月)。8月、自衛隊違憲裁判を闘う恵庭の野崎牧場を取材。
1968昭和43)年 39歳
1月1日、初めてダブリンに行き、20日間ほどをアイルランドで過ごす。アイルランド系アメリカ人とヴェトナム戦争の結びつきを探る。国民文化会議(5月から常任委員に推される)ほかの要請により、北海道美唄・夕張などの炭鉱を調査(4月)。5月、母・順子、静岡県舞阪町で死去、以後舞阪の家を日本での拠点とする。カリフォルニア州のアメリカ大統領予備選挙をユージン・マッカーシーの側から取材中に起きたロバート・ケネディ暗殺事件を現場から日本に報道(6月6日)。ジュネーブでの非核保有国会議を写真で記録しようとして失敗。その後、ロンドンから、初めての西アフリカ、ナイジェリアのラゴスに行く(8月)。ナイジェリア側から内戦を取材し、スペイン領フェルナンド・ポー(赤道ギニア)に行き、ビアフラ入国を図るが果たさず(9月)。北アイルランドのロンドン・デリーで公民権要求デモ闘争を取材、アイリッシュタイムスと契約(11月)。西アフリカ洋上のポルトガル領サントメ島で、ビアフラ入国のため待機(12月)。
1969昭和44)年 40歳
前年のクリスマス直前から乾季のビアフラに入り、その独立戦争に従軍(1月)。その後日本に戻り、ダブリンに行き、貨物船で南下して再びビアフラに入り、6月初めから7月の終わりまで、雨季のビアフラ戦争を取材。ロンドン・デリーでのプロテスタント祝賀大行進によるカトリック教徒との衝突、IRAのレジスタンスによって燃えるベルファストなどを取材(8月)。10月、奄美大島を取材。11月、ジブラルタル、モロッコなどを訪れる。
1970昭和45)年 41歳
カメルーンからラゴスへ寄り、エチオピアのアジスアベバ取材(1月から2月)。ビアフラ崩壊後のナイジェリア取材(3月から5月初め)。カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシア、ニュージーランド、オーストラリア、アイルランド、インドなどをまわる(5月中旬から9月初め)。9月、入国禁止が解けて5年ぶりのサイゴンで、嶋元啓三郎と会う。6カ月のビザ延長に成功する(10月)。サイゴン市内にアパートを一部屋借りる(11月)。暮れにプノンペンに行く(12月)。
1971昭和46)年 42歳
2月8日から25日にかけて、厳しい報道管制下で行なわれた南ヴェトナム軍のラオス侵攻作戦失敗の実態を、ただ一人地上よりの取材に成功(3月末まで)。ホンコンを経て帰国(4月)。なお、ホンコンは日本への出入ロとして生涯を通して数え切れないほど往来した。6月、ダブリンで、永田加久子との間に長男アキヒコ・ジュニア誕生。ベルファストで取材。
1972昭和47)年 43歳
2月、ビザを持ってサイゴン空港に降り立つが、7年間の入国禁止になっているのを知る。小泉八雲の足跡をたどりながら、松江、シンシナティ、ニューオーリンズ、マルティニク島、人種問題の小さなアメリカといわれるトリニダード・トバゴ、ダブリンなどを取材(7月頃から9月)。
1973昭和48)年 44歳
1月、パリでのヴェトナム和平交渉を取材。5月、父・於菟彦死去。
1974昭和49)年 45歳
冬のダブリンからエチオピアのウオロ州に行き、アイルランドの医療班と一カ月ほどを過ごす(1月)。インドのボンベイ(2月)。この頃から「岡村さんと母親達の会・武蔵野」など、新しい伝達の方法を求めて活発に勉強会をひらくようになる。
1975昭和50)年 46歳
この年あたりから.分散していた資料を意欲的に浜松の舞阪の家に集める。年末に、ハーバード大学を訪れる。
1976昭和51)年 47歳
ベルファストを取材後、62日間のハンガーストライキで獄死したIRA兵士フランク・シュタアグの葬儀を、アイルランドからニューヨークまで追って取材(1月から2月)。統一ヴェトナムへの最初の日本観光旅行団の一員として、ハノイ、ビエンチャン、ユエ、ダナンなどに行く(9月末から10月半ば)。ハノイから空路ホーチミン市に向かう観光旅行団の一員として5年ぶりのサイゴン(11月)。インド、ビルマ(12月)。
1977昭和52)年 48歳
柿沢兄弟に付き添いビエンチャンに行き、戦時死亡宣告となっていた柿沢健十・元一等兵を発見、33年ぶりの帰国を手伝う(2月から3月初め)。ベルファストでオレンジマンのパレード、エリザベス女王夫妻の訪問反対デモを取材(7月から8月)。
1978昭和53)年 49歳
西部衛生工場(し尿処理場)と西遠流域下水道(終末処理場)の建設に反対して、舞阪の漁民らとともに浜名湖内外の汚染を防ぐために「反公害」闘争を推進し、これに「海の幸を守る会」などが協力した(前年から引きつづき)。月刊誌として復刊する「LIFE」編集部と打ち合せのためニューヨークに行き、その後、リリエンソールのレポート「戦後ベトナム開発」を追究してテネシー州ノックスヴィルのTVA本部を取材(7月から8月)。11月、労音の日本ヴェトナム友好旅行団の一員としてホーチミン(旧サイゴン)市の米国犯罪博物館などを訪れる。
1979昭和54)年 50歳
日本河川開発調査会の一員として訪中。黄河などの調査に参加し、中国の水利委員会の人たちと話し合う(6月)。
1980昭和55)年 51歳
ジョージタウン大学ケネディ研究所バイオエシックス・センター教授・木村利人と二人で、バイオエシックス(生命倫理学)とは何かについて、北海道から九州まで36回にわたり講演をする(2月末から5月にかけて)。8月、日本河川開発調査会の一員として再度訪中する。
1981昭和56)年 52歳
前年から数度ワシントンD・Cのジョージタウン大学バイオエシックス研究所を訪れる。8月、「魯迅の会」訪中団団長として中国を訪れる。
1982昭和57)年 53歳
聖隷学園浜松衛生短大の看護科で独自のゼミを行なう(前年暮れから2月初め)。その後、看護婦、母親、医師、東洋医療関係者らを対象に、21世紀に生きる人びとのケアを求めて、名古屋(1982年4月開講)、諏訪(1983年4月開講)、京都(1984年4月開講)などで自主ゼミを開き、バイオエシックス、ホスピスを世界史のひろがりのなかで深める運動をすすめる。この年7月より、厚生連安曇病院神経科でのボランティア活動に取り組む。ワシントンのセント・エリザベス病院を訪ねる(12月末)。
1983昭和58)年 54歳
この年「ホスピスへの遠い道」(「看護教育」)を連載執筆(1985年4月号19回で未完で終わる)しながら、そのテーマをめぐって、アイルランド、イギリス、アメリカ、ベルギー、フランス、オーストラリアなどを取材。
1984昭和59)年 55歳
アキヒコ・ジュニア(長男)、ノブコ(三女)とともに旅行団「もうひとつの文明を訪ねて」に加わり、中国、モンゴルを旅する(7月半ばから8月初め)。中国(10月)。オーストラリア(12月)。
1985昭和60)年 56歳
1月、オーストラリアのシドニーに行く。3月1日、アイルランドに発ち、同8日帰国。11日、東京新宿の春山外科病院に入院。敗血症のため24日午前1時52分死去。31日、東京青山葬儀所で葬儀告別式(葬儀委員長は東京中学同級生で医師の延島建市)。12月、NHKテレビ「知己を後生に待つ―岡村昭彦のたどった道」放映。
※筑摩書房『岡村昭彦集』第6巻より転載。