年 譜
岡村昭彦年譜
1929昭和4)年 
1月1日、海軍兵学校出身の大日本帝国海軍将校・岡村於菟彦の長男として東京帝国大学病院にて生まれる。母・順子。
父系をたどると明治天皇侍従・堤正誼(曾祖父)、中央大学学長・岡村輝彦(祖父)らがおり、母系には日本赤十創設者・佐野常民(曾祖父)、アナポリス海軍兵学校に留学した海軍少将・田村丕顕(祖父)らがいる。親戚はいずれも戦前日本の上流階級に所属。
1941昭和16)年 12歳
3月、学習院初等科卒業。4月、同中等科入学。しかし2学期には東京中学校へ転校。
転校の理由は教練の時に菊の御紋章入りの木銃をたたき折ったからとされているが、岡村の幼少時はいわゆる「やんちゃなおぼっちゃん」であった。父母に溺愛されて育ち、彰子(姉)、光子(妹)、春彦(弟)がいた。
[12月8日、太平洋戦争勃発]
1944昭和19)年 15歳
4月、東京中学校4年生。
岡村は、転校と同時に他家へ預けられ、そこから通学していた。しかし戦況の悪化に伴い蒲田の軍需工場へ勤労動員され、ほとんど学校へ行かなかったが、ある夜ひそかに担任の家でみた「LIFE」に載っていた、ミラノ街頭で逆さに吊るされたムッソリーニと愛人の死体の写真に衝撃を受ける。
1945昭和20)年 16歳
3月、東京中学校卒業。空襲により原宿の家全焼。4月、東京医学専門学校(現・東京医科大学)入学。
3月25日に焼けた実家は、地下1階・地上3階の洋館で、パーティーのできる客間、壁一面天井まで梯子をかけて登る大きな本棚のある図書室などがあり、岡村は狂気のように火を消し止めようとした。その後一家は鎌倉の別荘に移り住んだが、敗戦により海軍大佐だった父は公職追放となり、岡村は東京医専に通いながら、買い出しはもちろん海水から塩までつくって、病弱な母と、親戚も加えてふくれあがった大家族を必死に支えた。
[8月15日、日本無条件降伏]
1947昭和22)年 18歳
東京医学専門学校中退(3月頃)。
岡村は海外同胞引揚援護会で活動し、医学生として引揚船に乗り組み大連に行ったりなどしていたが、この頃にはアメリカ軍相手の輪タク屋などをしながら家を離れて自活していた。中退の理由は、学費値上げを企図した学校当局に反対して、学長の伯父・緒方知三郎の前で演説をしたことによる。
[5月3日、日本国憲法施行]
1950昭和25)年 21歳
東京での闇屋、役者、学者、労働者、職人、浮浪児などとの共同生活の中に、弟・春彦を引きとる(4月頃)。
[6月、朝鮮戦争始まる]
1953昭和28)年 24歳
前年暮れから、函館郊外の渡島当別トラピスト修道院に客室係として住み、キリスト教についての本などを読みあさる。
1954昭和29)年 25歳
函館市の小売書店で働き、齋藤和子との間に長女・純子誕生(3月)。
翌年次女・聡が生まれたが、その後に離婚。以後岡村は母の住む浜名湖畔の舞阪町と函館を往来したりしながら、出版流通についての仕事や、ラジオドラマを書いたりしていたが、昭和34年頃部落解放同盟に入り、オルグ活動を始める。
1960昭和35)年 31歳
東京荒川にある町工場の住み込み皮革労働者として仲間と共に安保闘争に参加(6月頃)。
[12月20日、南ヴェトナム解放民族戦線結成]
1961昭和36)年 32歳
千葉県下の部落解放運動に取り組んでいたが、夏頃から総評の週刊誌「新週刊」編集部に勤める。
岡村は「新週刊」にスカウトされたのであった。そこでの仕事を通して、上野英信、土門挙、三木淳らの知遇を得ていった。
[4月12日、ソ連宇宙船初の人類飛行に成功(ガガーリン)]
1962昭和37)年 33歳
石川達三編集長の「新週刊」表紙「世界の子どもシリーズ」を担当していたが、同誌の廃刊によりPANA通信社に入社(9月頃)。同通信社移動特派員として、初めてライカM3型1台を買い、バンコクに赴く(12月)。
岡村はバンコクを知るために、街を90に割り、3カ月をかけて路地から路地を歩いた。その間初めて撮った写真は火事現場のもので、以後ファイティング原田、マーロン・ブランドなどの写真取材をしていた。
[3月、南ヴェトナムの米軍事顧問、戦闘参加を開始]
1963昭和38)年 34歳
4月、ラオスに行き、プーミン・ノサバン軍の日本人・サワット(山根正人)中佐を取材(7月に再度)。7月、初めてサイゴンに入り、南ヴェトナム前線に最初の従軍をする(8月)。マレーシア独立式典を取材(9月)。ゴ=ジンジェム大統領兄弟が殺されたクーデターを取材(11月)。プノンペン側から南ヴェトナム国境を取材。自由圏の記者であるためカンボジアを追放される(12月暮れ)。
「ラオス軍を指揮する日本人将校」(「毎日グラフ」8月18日号)発表、初めて写真が表紙に用いられた、カバー・ストーリー。
[11月22日、ケネディ米大統領暗殺]
1964昭和39)年 35歳
ソウルへ行き、ミサイル基地での李少年射殺事件を取材(2月)。韓国漁船に乗り込み、日本人記者として初めて李ラインを内側から取材(3月)。乾季のメコン・デルタ(4月から5月)、山岳民族部隊(6月)、ラオス国境地帯(11月)、それぞれ従軍。
「苦悶するインドシナ3国」(「朝日ジャーナル」1月26日号から4回連載)、初めての本格的なヴェトナム戦争ルポルタージュ。「日本人記者のみた平和線(李ライン)」(「東亜日報」紙に朝鮮語で)3回連載(3月)。「LIFE」6月12日号、「ロバート・キャパの後を継ぐウオー・フォトグラファー」という「エディターズ・ノート」とともに、カラー写真を9ページにわたって掲載。「世界」(8月号)にグラビア8ページと共に「南ヴェトナム戦線従軍記」を発表(この年は「世界」に5回執筆、また週刊誌への発表も多くなる)。講談社写真賞受賞(11月)。
[10月10日、東京オリンピック開催]
1965昭和40)年 36歳
サイゴンと解放区の村を往来していたが(2月)、南ヴェトナム第3海兵隊に従軍後、サイゴンのアメリカ大使館爆破を取材(3月)。4月半ばから5月末頃まで、Dゾーンの解放区にある捕虜収容所にとらわれの身となったが、解放民族戦線のファット副議長との会見に成功し、サイゴンをひそかに抜け出て、アメリカに行く(6月)。その後、ドミニカ革命を取材し、ヴェネズエラ、メキシコを経てアメリカに戻り、8月、日本に帰る。この間に「LIFE」「サンデー毎日」と契約。PANA通信社を退社。初めて沖縄を取材する(11月半ばから12月25日まで)。
『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書)刊行(1月)、この年のベストセラーズとなる。写真集『これがベトナム戦争だ』(毎日新聞社)刊行、写真展「動乱のベトナム」開催される(3月)。「LIFE」4月9日号「アメリカ大使館爆破の写真」掲載。芸術選奨文部大臣賞受賞。アメリカ海外記者クラブ最優秀報道写真年度賞受賞(4月)。日本写真協会年度賞受賞(6月)。「LIFE」7月2日号、ルポルタージュ「ジャングルのヴェトコンの生き地獄からの生還」を異例のイラスト入りで掲載。この年ファット副議長との会見記や解放区の一連の報道のため、5年間の南ヴェトナム入国禁止となる。「ドミニカの陽気な革命」(「太陽」11月号)発表。
[2月7日、ジョンソン米大統領北ヴェトナム爆撃開始。5月5日、ドミニカ内戦停戦協定調印]
1966昭和41)年 37歳
羽田沖で墜落した全日空機事故を取材(2月)。環太平洋を取材すべく、ハワイ、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリアなど(9月)、サンフランシスコを訪れる(10月)。10/21ヴェトナム反戦ストで大宮操車場など取材。タヒチ、ホノルルを取材(10月から11月)。
『続南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書)刊行(9月)。「忘れ得ぬヴェトナムの少年」(「高二時代」10月号)。
[5月16日、中国文化大革命はじまる]
1967昭和42)年 38歳
美濃部亮吉東京都知事候補を応援(3月から4月)。8月、自衛隊違憲裁判を闘う恵庭の野崎牧場を取材。
「タヒチからの報告」「ホノルルのダウン・タウンからの報告」(「タウン」1月号・2月号)発表。「沖縄の中のベトナム」(「世界画報」1月号)発表。「解放戦線の政治と文化」(「世界」9月号)、 解放戦線の画集からのグラビア10ページとともに発表。また岡村はこの年、たびたびタイ、カンボジアを訪れ、解放戦線側と接触していた。
[1月6日、米国防省、ヴェトナムの米軍4万3000人と発表。7月23日、デトロイト市で黒人暴動。この年、ロンドンのセント・クリストファー・ホスピス創立]
1968昭和43)年 39歳
1月1日、初めてダブリンに行き、20日間ほどをアイルランドで過ごす。アイルランド系アメリカ人とヴェトナム戦争の結びつきを探る。国民文化会議(5月から常任委員に推される)ほかの要請により、北海道美唄・夕張などの炭鉱を調査(4月)。5月、母・順子、静岡県舞阪町で死去、以後舞阪の家を日本での拠点とする。カリフォルニア州のアメリカ大統領予備選挙をユージン・マッカーシーの側から取材中に起きたロバート・ケネディ暗殺事件を現場から日本に報道(6月6日)。ジュネーブでの非核保有国会議を写真で記録しようとして失敗。その後、ロンドンから、初めての西アフリカ、ナイジェリアのラゴスに行く(8月)。ナイジェリア側から内戦を取材し、スペイン領フェルナンド・ポー(赤道ギニア)に行き、ビアフラ入国を図るが果たさず(9月)。北アイルランドのロンドン・デリーで公民権要求デモ闘争を取材、アイリッシュタイムスと契約(11月)。西アフリカ洋上のポルトガル領サントメ島で、ビアフラ入国のため待機(12月)。
むのたけじとの対話集『1968年――歩み出すための素材』(三省堂新書)刊行(4月)。「私は見た(R・ケネディ暗殺)惨事の現場」(「毎日新聞」6月6日朝刊)、国際電話で送る。特別弁護人をしていた金嬉老の生いたちの記録を編集して『弱虫・泣虫・甘ったれ』(三省堂新書)刊行(12月)。
[3月、北ヴェトナム軍、米海兵隊をケサン基地に包囲。8月20日、ソ連軍チェコに侵入]
1969昭和44)年 40歳
前年のクリスマス直前から乾季のビアフラに入り、その独立戦争に従軍(1月)。その後日本に戻り、ダブリンに行き、貨物船で南下して再びビアフラに入り、6月初めから7月の終わりまで、雨季のビアフラ戦争を取材。ロンドン・デリーでのプロテスタント祝賀大行進によるカトリック教徒との衝突、IRAのレジスタンスによって燃えるベルファストなどを取材(8月)。10月、奄美大島を取材。11月、ジブラルタル、モロッコなどを訪れる。
高槻六中の卒業式を取材、「ぼくらは朝鮮の姓名を名乗る」(「アサヒグラフ」4月25日号)。「岡村昭彦のビアフラ報告」(NET)放映(9月)。「北アイルランドの暴動」(「アサヒグラフ」9月12日号)、乾季のビアフラの写真は「LIFE」では使わなかった(1月末)が、その後の雨季のと合わせて、「ビアフラの独立戦争」(「アサヒグラフ」10月3日号・カラー28ページ)発表。 「ビアフラの悲劇」(「少年サンデー」11月号)。
[1月25日、第1回ヴェトナム和平拡大パリ会談。7月20日、米宇宙船アポロ11号、初めて月面着陸。この年、世界最初のバイオエシックス研究所「ヘイスティングス・センター」創立(ニューヨーク州)]
1970昭和45)年 41歳
カメルーンからラゴスへ寄り、エチオピアのアジスアベバ取材(1月から2月)。ビアフラ崩壊後のナイジェリア取材(3月から5月初め)。カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシア、ニュージーランド、オーストラリア、アイルランド、インドなどをまわる(5月中旬から9月初め)。9月、入国禁止が解けて5年ぶりのサイゴンで、嶋元啓三郎と会う。6カ月のビザ延長に成功する(10月)。サイゴン市内にアパートを一部屋借りる(11月)。暮れにプノンペンに行く(12月)。
「ビアフラ崩壊後5カ月」(「サンデー毎日」6月14日号)を書いた後、岡村はヴェトナムを取り囲むように各国をまわった。
[3月、カンボジアでクーデター、シアヌーク亡命政権樹立]
1971昭和46)年 42歳
2月8日から25日にかけて、厳しい報道管制下で行なわれた南ヴェトナム軍のラオス侵攻作戦失敗の実態を、ただ一人地上よりの取材に成功(3月末まで)。ホンコンを経て帰国(4月)。なお、ホンコンは日本への出入ロとして生涯を通して数え切れないほど往来した。6月、ダブリンで、永田加久子との間に長男アキヒコ・ジュニア誕生。ベルファストで取材。
「LIFE」3月12日号、表紙と10ページのルポルタージュ特集「ラオスでの戦争」を組む。同3月26日号、4月2日号にも写真を発表、そのうちの一枚は同12月31日号の年間写真選に掲載。なお加久子との間には、三女・ノブコが1969年にダブリンで生まれており、アキヒコの後には、四女・クスミ(1975年)、五女・アイコ(1977年)が同じくダブリンで誕生、いずれもアイルランド国籍である。
[10月25日、中国の国連復帰決定]
1972昭和47)年 43歳
2月、ビザを持ってサイゴン空港に降り立つが、7年間の入国禁止になっているのを知る。小泉八雲の足跡をたどりながら、松江、シンシナティ、ニューオーリンズ、マルティニク島、人種問題の小さなアメリカといわれるトリニダード・トバゴ、ダブリンなどを取材(7月頃から9月)。
嶋元啓三郎遺作集に「嶋元啓三郎につづく若い人々のために」を執筆。「マスコミ市民」(5月号)に「だれが国民の心理操作に成功したのか」を発表、以後しばらく岡村は「マスコミ市民」を主な執筆の場とする。「小泉八雲とアイルランド」(「太陽」9月号から4回連載)発表。
[2月、ニクソン米大統領中国訪問。5月15日、沖縄の施政権返還、沖縄県発足。9月29日、日中国交正常化。12月、国際写真週刊誌「LIFE」休刊]
1973昭和48)年 44歳
1月、パリでのヴェトナム和平交渉を取材。5月、父・於菟彦死去。
数年前から岡村はダブリンを海外での拠点として活動をつづけていたが、「LIFE」の休刊はそれにも微妙なかげりを与えた。むのたけじと「後進資本主義国日本と人民中国」というタイトルで対談(「マスコミ市民」7月号、8・9月号)。
[1月27日、米・南ヴェトナム・北ヴェトナム・南ヴェトナム臨時革命政府ヴェトナム和平協定と議定書に調印]
1974昭和49)年 45歳
冬のダブリンからエチオピアのウオロ州に行き、アイルランドの医療班と一カ月ほどを過ごす(1月)。インドのボンベイ(2月)。この頃から「岡村さんと母親達の会・武蔵野」など、新しい伝達の方法を求めて活発に勉強会をひらくようになる。
巻頭グラビア「エチオピア北部の干ばつ飢餓地帯」(「週刊読売」3月23日号)発表。「新世」(倫理研究所)7月号から「母親のための資本主義講座」(全24回)の連載が始まる。岡村は以後4年間にわたって「新世」を主要な執筆の場とする。
[8月8日、ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任。9月12日、エチオピア軍、皇帝を廃位]
1975昭和50)年 46歳
この年あたりから.分散していた資料を意欲的に浜松の舞阪の家に集める。年末に、ハーバード大学を訪れる。
『兄費として伝えたいこと』(PHP研究所)刊行(5月)。
[4月17日、カンボジア解放勢力、プノンペン占領。4月30日、解放軍、サイゴンへ無血入城]
1976昭和51)年 47歳
ベルファストを取材後、62日間のハンガーストライキで獄死したIRA兵士フランク・シュタアグの葬儀を、アイルランドからニューヨークまで追って取材(1月から2月)。統一ヴェトナムへの最初の日本観光旅行団の一員として、ハノイ、ビエンチャン、ユエ、ダナンなどに行く(9月末から10月半ば)。ハノイから空路ホーチミン市に向かう観光旅行団の一員として5年ぶりのサイゴン(11月)。インド、ビルマ(12月)。
「アイルランドからの小さな報告」(「プレイボーイ」日本版5月号)発表。
[7月2日、ヴェトナム社会主義共和国樹立を宣言]
1977昭和52)年 48歳
柿沢兄弟に付き添いビエンチャンに行き、戦時死亡宣告となっていた柿沢健十・元一等兵を発見、33年ぶりの帰国を手伝う(2月から3月初め)。ベルファストでオレンジマンのパレード、エリザベス女王夫妻の訪問反対デモを取材(7月から8月)。
柿沢一等兵の帰国後も、岡村はその社会的側面においてはもちろん医療面でも、熱心にリハビリテーションにかかわった。
[12月31日、カンボジア、ヴェトナム軍の国境地帯侵略を非難、断交]
1978昭和53)年 49歳
西部衛生工場(し尿処理場)と西遠流域下水道(終末処理場)の建設に反対して、舞阪の漁民らとともに浜名湖内外の汚染を防ぐために「反公害」闘争を推進し、これに「海の幸を守る会」などが協力した(前年から引きつづき)。月刊誌として復刊する「LIFE」編集部と打ち合せのためニューヨークに行き、その後、リリエンソールのレポート「戦後ベトナム開発」を追究してテネシー州ノックスヴィルのTVA本部を取材(7月から8月)。11月、労音の日本ヴェトナム友好旅行団の一員としてホーチミン(旧サイゴン)市の米国犯罪博物館などを訪れる。
岡村は生態系破壊の原点を求めて、世界史の流れの中で水資源問題に取り組んでいた。「ロバート・キャパ 戦場にロマンを見た男」(「現代の眼」2月号)。
[12月25日、ヴェトナム軍とカンボジア救国民族統一戦線、ポル・ポト政府軍と激戦。この年、英国で世界最初の試験管ベビー誕生]
1979昭和54)年 50歳
日本河川開発調査会の一員として訪中。黄河などの調査に参加し、中国の水利委員会の人たちと話し合う(6月)。
「世界史のシッポをとらえるまで」(『続・わたしの知的生産の技術』講談社、11月刊行)に収録される。
[6月8日、国連、ヴェトナムを船で脱出した5月の難民数5万1139人と発表]
1980昭和55)年 51歳
ジョージタウン大学ケネディ研究所バイオエシックス・センター教授・木村利人と二人で、バイオエシックス(生命倫理学)とは何かについて、北海道から九州まで36回にわたり講演をする(2月末から5月にかけて)。8月、日本河川開発調査会の一員として再度訪中する。
「〝TVA〟の神話はどのようにつくられたか」(「にほんのかわ」4月、日本河川開発調査会)。
[6月、英国セント・クリストファー・ホスピタルで世界最初の国際ホスピス会議]
1981昭和56)年 52歳
前年から数度ワシントンD・Cのジョージタウン大学バイオエシックス研究所を訪れる。8月、「魯迅の会」訪中団団長として中国を訪れる。
「日本にバイオエシックスを生み出すために」(「国民文化」5月、258号)。「SFの歴史から見た魯迅訳〈月界旅行〉の弁言」(「中国研究月報」10月、404号)。ビクター&ローズマリー・ゾルザ著『ホスピス』(家の光協会)を監訳(木村恵子訳)刊行(12月)。
[この年、イルメンゼーとホップ、核移植によってクローンマウスを創出]
1982昭和57)年 53歳
聖隷学園浜松衛生短大の看護科で独自のゼミを行なう(前年暮れから2月初め)。その後、看護婦、母親、医師、東洋医療関係者らを対象に、21世紀に生きる人びとのケアを求めて、名古屋(1982年4月開講)、諏訪(1983年4月開講)、京都(1984年4月開講)などで自主ゼミを開き、バイオエシックス、ホスピスを世界史のひろがりのなかで深める運動をすすめる。この年7月より、厚生連安曇病院神経科でのボランティア活動に取り組む。ワシントンのセント・エリザベス病院を訪ねる(12月末)。
季羽倭文子と対談「ホスピスを考える」(「看護教育」6月号、7月号)。
1983昭和58)年 54歳
この年「ホスピスへの遠い道」(「看護教育」)を連載執筆(1985年4月号19回で未完で終わる)しながら、そのテーマをめぐって、アイルランド、イギリス、アメリカ、ベルギー、フランス、オーストラリアなどを取材。
岡村は「ホスピスへの遠い道」で新しい医療ルポルタージュの方法をつくり出そうとしていた。
1984昭和59)年 55歳
アキヒコ・ジュニア(長男)、ノブコ(三女)とともに旅行団「もうひとつの文明を訪ねて」に加わり、中国、モンゴルを旅する(7月半ばから8月初め)。中国(10月)。オーストラリア(12月)。
シシリー・ソンダーズ他編『ホスピスケアハンドブック』監訳(佐藤蓉子分担訳)刊行(7月)。 9月、NHKテレビ「訪問インタビュー岡村昭彦」放映。
[1月19日、FAOがアフリカ24カ国の1億5000万人が飢餓状態と報告]
1985昭和60)年 56歳
1月、オーストラリアのシドニーに行く。3月1日、アイルランドに発ち、同8日帰国。11日、東京新宿の春山外科病院に入院。敗血症のため24日午前1時52分死去。31日、東京青山葬儀所で葬儀告別式(葬儀委員長は東京中学同級生で医師の延島建市)。12月、NHKテレビ「知己を後生に待つ―岡村昭彦のたどった道」放映。
遺骨は分骨されて、浜松市成子のカトリック浜松教会と東京駒込の吉祥寺の墓に、それぞれ埋葬された。
1986年3月24日、第1回岡村昭彦忌が行なわれる。「岡村昭彦蔵書目録をつくる会」発足。5月、『岡村昭彦報道写真集』(講談社)刊行。12月、『岡村昭彦集』全6巻のうち第5巻までを刊行(注・岡村が残した、ルポルタージュ、評論、エッセイなど全300篇ほどの中から編纂。翌年3月全6巻完結)。(作成=暮尾淳・岡村春彦)
※筑摩書房『岡村昭彦集』第6巻より転載。