アキヒコと私
アキヒコと私
槙 糸子
 浜名湖に面した漁村・舞阪は私の故郷である。同時に岡村昭彦氏の母、順子(のぶこ)さんが「岡村幼稚園」というカトリックの小さな子どもたちの預り所を開き、そこに骨を埋めた土地である。彼女が亡き後、その家を彼は3万にのぼる蔵書を積み上げ仕事場とした。
 私はその岡村幼稚園で育ち、「おばちゃん先生」が我が子の作品として親達に配った『南ヴェトナム従軍記』をふとしたきっかけで高校生になってから読んだ。何をしてももの足らない時期にそれは強烈であった。彼がもし私にバトンを渡していたのなら、彼にとって最年少のランナーなのかもしれない。
 時々訪ねるかたわら、本棚のガラスふきをした。沢山の本やライフなどの雑誌に囲まれて、よく彼とオレンジペコの紅茶を飲んだ。彼は人使いが荒かった。そしてよく事あるごとに叱った。どうしてこんなに他人に叱られるのだと頭がガンガンして帰った記憶もある。
 17歳の夏にアシスタントをしている塚田さんと九州、広島、京都への旅に行った。これは「岡村ゼミ」の前身ともいえるかもしれない。その頃彼はヴェトナムからアイルランド、アイルランドから鹿児島と多くの課題を担っていた。私はその知り合い中を引き回され、筑豊文庫で亡き上野英信・晴子夫婦の暖かいもてなしにホッとした。
 差別問題、労働問題、ヴェトナム戦争、アイルランド紛争、公害問題、時には中東の石油と、岡村図書館で多くのことを生きた勉強として学んだ。時々彼は「本はオーケストラの様に読むのだ」と言っていた。けれども私は本当にそれらが好きかと言われれば疑問だった。ただ強烈な彼にひきずられ、レールの上を走らされているだけのような気になった。身持ちの悪い彼を、田舎の人々はうわさした。隣のおじさんでさえ「あそこはあまり出入りしない方がよいよ。」と忠告してくれた。そして国会図書館へ入る夢ももろくもくずれてしまった。私はランナーとしては失格だった。
 結局、今名古屋に嫁いで20年となる。長女が産まれてベビーカーで散歩している春に彼が亡くなったことを知った。
 磁極を持っているような彼は、私の人生をも変えたが、彼はまだ私の心の隅に生きていて、時々疑い深く物を見る時の私の瞳の中にいる。
 シャッター以前という言葉はほんとうに彼らしいと思う。ひとつのことにどれだけの勉強と、実地を踏まえたか。彼の仕事は時のジャッジや世界のジャッジにも耐え今に残っている。また世界史観が日本人にありながら素晴らしい。
 上野英信氏のひとり息子あかし朱さんと時々亡き彼の話をする。大学の先生でもしていたらそれはそれは面白い話がたくさん聞けたのにねぇ。上野氏もアキヒコも嵐のような方々だったから、ご存命ならなるべく遠くで見ていたいと思うのである。   (2003/3/30)