アキヒコと私
アキヒコと私
柴田憲緒(しばたのりお)
宮城県黒川郡富谷町 住
「岡村昭彦」のこと-2011.3.11の震災を経て生き残ったH9当時の『書き付けメモ』より…
 
…己の目指す「生き方を生きる」ため、可能な限り誠実に、全身全霊を捧げようとしていた岡村昭彦であった。
*彼は昭和4(1929)年生まれ。(私と六つ違いの年上だ)。学習院中等科中退。東京医学専門学校中退。15歳の時、LIFEに載った写真「逆さに吊られたムッソリーニと愛人の死体」に衝撃を受ける。32歳の時千葉県の部落解放運動に取組み、仕事を通じ土門拳らの知己を得る。33歳の時、編集長石川達三の「新週刊」表紙に『世界の子どもシリーズ』を担当。この後PANA通信社の特派員としてバンコクに赴く。42歳でLIFEの表紙とルポルタージュ特集『ラオスでの戦争』を組む…(以下省略)。
 
●彼との出会いとなった動機はどんなだったか? その記憶を辿ろうとしたが、今はその鮮明さに欠けるところがある。手元の日記などを頼りに振り返ってみた。
 手帳を繰ると最初にこのメモが記してあった。
 昭和59(1984)年9月20日、NHK教育テレビ『20世紀の群像』を観た…とある。かなり遅い時間帯の番組だ。*「反骨のジャーナリスト~大宅壮一~青地晨のテーマ」と、*「戦乱の中のジャーナリスト~ロバート・キャパ~桑原甲子雄・岡村昭彦」という内容で、どうやらこの日が、彼とのそもそもの出会いらしい。
 
 同じ日、他に「T:実家へ」とメモにある。きっとこの日は妻(T)が居ないので、仕事を終えて帰宅した私は、ひとり夜食を近所の店で済ませ、自宅でおとなしくテレビを観て過ごしたものと思われる。番組も好きな写真の場があるかも知れないという軽い期待感から、きっとチャンネルを選んだのだろう。今振り返ってみれば、出会いは偶然の賜物と言える「邂逅」だったようだ。
 
 だから当初の彼は、ベトナム報道カメラマンの姿で私の目の前にあらわれたわけだが、私の印象はその後、「ホスピスに関わる彼」の方が、私を強く捉えて放さないものがあったような気がする。
 
 更に手帳を繰ると、この後、昭和59(1984)年9月にNHKで『訪問インタビュー岡村昭彦』の放映を観ている。きっと彼のその切り口やその内容に、しぶとく生きる彼の真骨頂が窺えたのだ。
 私は彼の番組から、「物の見方、物の考え方」など何かしらのメッセージを伝えられたに違いない。でなければ、こうも彼のことを追いかけるはずがない。
●没後も、彼を求める私は「写真集や著書など幾つかの作品」に触れる機会を得ている。どの作品にも、どのコメントにも、彼らしい真っ直ぐに貫く鋭いものがあった。例えば、昭和62(1987)年筑摩書房刊、「高校生のための三部作」がある。
 その内の一部「現代の文章」8頁目に、彼の書いた「カメラマンの世界認識」という一文があり、こんな一節がある。
「…このとき、私の中に燃え上がってきたものは、なぜ俺はこんな単純な事実を知らずに育ってきたのだろうという憤怒に近い思いでした。私が学んだ日本の教育というものは、いったい何だったのか…」
 ここのくだりに今も赤の傍線が残っている。きっと当時51歳の私の頭に、ガツンと一発!効いたものがあったにちがいない。
 確かに彼の作品は戦争ものが多い。報道写真家だから当然である。だが、昭和57年当時の彼(53歳)は、既に21世紀に生きる人々のケアを求めて自主ゼミを開き、耳慣れないバイオエシックス・ホスピスを深める運動を進めている。昭和61年写真集『生命の尊厳・戦争の醜さを感動的に伝える』のタイトルにみる通り、既にその道を歩んでいるのである。私はこんな考えの、こんな行動をする彼にどうやら魅かれたらしい。
 だが、彼はこの後、敗血症のため56歳の若さで死んだ。私が彼を知った翌年の、昭和60(1985)年3月24日の急な出来事である。
 
*余談になるが、彼とのこの「出会いと直後の死」の形は、私の好きな作家向田邦子のそれとどこか似ていると思った。昭和56(1981)年8月22日台湾取材の折り、彼女は52歳で飛行機事故のため死去…。それまでの彼女は「猫好き・料理好き」として度々ブラウン管を賑わしていたが、私の場合は、彼女の『簡潔なエッセイ』と、プロ裸足と言われた『写真』が、彼女との出会いの対象と思っている。
 
*これも余談だが、彼が死んだ同じ年の8月12日、ジャンボ機が御巣鷹山へ激突する事故があり,同じこの年の1月30日東京に住む私の兄が54歳で死んだ。そこに何かしらのものを感じる。ゴルフ好きな営業マンの兄はいつも黒々と日焼けしていて、笑顔の絶えない豪放磊落な男だった。弟の私は、病気など受け付けぬ丈夫な兄という思いがあった。小さい頃から抱くそんな思いがあるだけに、この兄の死は私にとって大きなショックだった。
 
 写真家で活動家の岡村昭彦も、一際眩しく光る白い歯が、日焼けした顔にとても印象的であった。丸刈り坊主頭のせいか子供っぽい無邪気さも見受けられた。だが、その語り口には厳しいものがあった。濃密な話の内容もさることながら、こちらを見据える彼の鋭い眼差しには覇気さえ感じた。しかし、真摯な態度で臨むブラウン管に見る彼の姿は、常に好ましく、いつも誠実で、優しさに満ち溢れていた。今も尚、私はそう受け止めてやまない。
 
 彼が死んだ5年後に、彼の遺志を称える有志と家族が中心となって『岡村昭彦発見の会』が発足した。ご案内で知り私も会員に加えさせていただいたが、私の場合はせいぜい年会費を収め、機関誌や情報資料を頂戴する程度のささやかな関わりに過ぎない。と言いながらも,今も甘んじてその末席を汚している。                  合掌
(2012,8,15記)